これはええ話やないか…(´Д⊂ヽ
◆震災企画「あの日があるから」 自衛隊員になった少年「命の恩人に憧れて」
「良平! 」「大丈夫か! 」。自分を呼ぶ声が遠くで聞こえ、目を覚ました。なぜ呼ばれたのか、どこにいるのか、何も分からなかった。辺りはただ真っ暗。身動きができなかった。「ここにおるよ! 」。力いっぱい叫んだが、相手に届いたのかどうか。すぐに意識を失った。
平成7年1月17日午前5時46分。当時、小学3年生だった陸上自衛隊第3特殊武器防護隊所属の安藤良平陸士長(22)=兵庫県伊丹市=は、神戸市兵庫区中道通で被災した。自宅のあった3階建てのマンションは全壊。中道地区は倒壊家屋が多く、犠牲者は70人以上に及んだ。
3階の一室に家族4人で住んでいた安藤さんは、崩れ落ちたがれきの下敷きになった。けがはなかったが、倒れかかったタンスと壁の隙(すき)間に入り込み、救助されたのは発生から半日以上経った午後6時前。避難所となった近くの小学校で、父親の政弘さん(52)に抱きかかえられていたとき、ようやく意識が戻った。
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地域住民らが身を寄せ合う真冬の小学校。ビニールシートと木材で校庭に建てられた仮の住まいで約3カ月間、避難生活を送った。その間、相手をしてくれたのは、避難所を毎日訪れる若い自衛隊員だった。
隊員はときに遊び相手になり、話し相手になってくれた。来るのは昼過ぎの給水時間。生活再建の悩みなどで重苦しい雰囲気の避難所で、隊員は優しく、頼もしい「お兄ちゃん役」だった。
そんな自衛隊員が「命の恩人」だと知ったのは、約2年後の小学5年生のころ。半日以上も意識が戻らなかった息子を心配してか、震災のことをほとんど語らなかった父が教えてくれた。
発生直後、政弘さんら3人は外に飛び出したが、安藤さんだけが室内に取り残された。室内は壁が崩れ、天井がゆがみ、タンスが倒れていた。政弘さんは「助かってほしい」と祈るしかなかった。そのとき、駆け付けた隊員が、かすかに聞こえる声を頼りに安藤さんを助け出したという。
苦しい時に手を差し伸べてくれる頼もしい人−。避難所の優しいお兄ちゃんと命の恩人がひとつに重なったとき、安藤さんは自衛隊員になると誓った。
地元の高校を卒業後に入隊。訓練は想像以上に厳しかったが、「人を助ける人間になるには必要」と言い聞かせた。配属先は、放射能汚染や洪水災害後の防疫、消毒作業などを行う化学科を希望。危険な仕事だが、困った人を真っ先に助ける職種に思えたからだ。
今春で自衛隊員になって丸4年になる。各地で地震、水害が頻発するが、災害現場への出動経験はまだない。それでも日々の訓練を通し、1人の被災者を救助することでさえ難しいことを知った。
責任の重さも痛感している。知人に自衛隊員になったと言うと、必ず「頑張れ」と励まされる。13年前の自分と同じように、自衛隊員に助けられた被災者は多い。「がれきの下から助け出された自分だからこそ、いまの仕事に生かせることがあるはず」と話す。
震災から間もなく13年。うれしい知らせも届いた。救出してくれた隊員が見つかり、16日午後、自宅跡地で再会するという。そのとき、こう伝えたいと思っている。
「あなたと同じ自衛官になりました」
ソース・MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/080111/dst0801112205005-n1.htm
また、あの大震災の日がやってくる。
テレビ画面が刻々と信じられない惨状を映し出しているにもかかわらず、お粗末な危機管理と自身のイデオロギーからかは知らんが自衛隊の派遣をとまどい、結果として甚大な被害を食い止めきれなかった時の自衛隊の最高指揮権者・内閣総理大臣の村山富市氏は、「なにぶんはじめてのことで…」と国政を預かる者として言ってはならない言い訳をカマしていた。
世界に類を見ない憲法のもと、自衛隊を「平和の敵」のように考え、その活動に理解も尊敬も与えようとしない国民も多いが、大災害が発生した際には自衛隊以上の能力を持った組織が我が国に存在しないのはまぎれもない事実です。
この記事で紹介されているように、被災地で懸命に働く自衛隊員は被災者にとって、頼りになる存在であり希望でもあります。
久々に感動したので、ついでと言っちゃなんだが、この記事と同様に震災と自衛隊関連で以下のようなエピソードもあったことをお知らせしたいと思います。
※以下、「日本と日本人のなごむ話・いい話・感動した話・泣ける話」様より転載
http://ameblo.jp/kuromaryu/
長い間
死者6433人、重軽傷者43792人。被害額約10兆円。
「若者の代表としてひとつだけ言いたいことがあります・・・」
焼け野原に立つ避難所の一角で、その青年は拡声器を握り締めて話し始めた。
真っ赤に泣きはらした瞳から流れる涙をぬぐいながら、搾り出すように、しかしハッキリと話を続ける。
「これから僕らがこの神戸を立て直していかなければなりません。その後ろを押してくれたのが自衛隊の人達です」
周りにいた大人達も涙を流し、そして思わず、今日別れることになった陸自・災害派遣部隊の人々に駆け寄る。
「長い間、ありがとうございました!」
青年はそう叫ぶと、ひとりの自衛官の胸に飛び込み、そして声を出して泣き出した。
自衛官も頼もしい腕で抱きしめ、共に泣いた。
”自衛隊さん、ありがとう”
そう書かれた横断幕が風で揺れる中、自衛隊最大の任務はここに幕を閉じた。
お兄ちゃん
私達親子は阪神淡路大震災の時、自衛隊のみなさんに大変助けていただきました。
震災当時、私達夫婦には6歳になる息子があり、私は神戸市役所勤務、妻は保健婦として勤める共稼ぎをしておりました。
震災直後から、二人とも職務に忙殺されていて、息子は保育所の先生とボランティアのケースワーカーの方に頼らざるを得ないような状況でした。
これは、私達夫婦がいない時に起こったことで、後になって息子とお世話になった自衛隊員から聞いたことです。
震災のあと、二月に入ったころ、息子が近所の公園で遊んでいた時にかなり大きな余震があり、息子は「揺れ」にトラウマがあったためにその場で動けなくなっていました。
そばで給水活動をしていた若い自衛官が息子を抱き上げてくれたそうです。息子はその自衛官の足にしがみついたまま震えていたと聞きました。
「お兄ちゃんがいるから安心しな」ってずっと抱きしめていてくれた、と後になって息子から聞きました。
給水活動の持ち場は、その人の上官が代わってくれたそうです。
このことは、私達はしばらくのあいだ知らないままでした。息子が小学校2年生になったとき、「あのときのお兄ちゃんにあいたい」と聞かされ、そのときに息子を助けてくれた自衛官のいたことをはじめて知ったのです。
息子が小学校二年になったときに、本人の口から聞かされた「お兄ちゃん」のことは私達夫婦にとっても、直接あってお礼を言わなければならない人になりました。
その年の七夕の笹飾りに「お兄ちゃんにあいたい」と息子が書いたのをみて、わたしは息子の希望をかなえるべく人捜しをはじめました。
記憶をたどりながら、「たしか、、あの車には、第○××大隊、、と書いてあった」
防衛施設庁に電話をして、事情を話すと極めて迅速に調べてくれました。
滋賀県にあるその部隊まで息子をつれて出かけました。
前もって電話でお願いしていたので、息子は「お兄ちゃん」との再会を果たすことができました。
あったとたんに、息子が飛びつき、「おにいちゃん」も「おおきくなったなー」と抱き上げてくれました。
息子が身体をぶつけてそのうれしさを表現しているのを見て、あの混乱の最中、父親として満たしてやれなかった部分を補ってくれた、この若い自衛官に頭の下がる思いでした。
息子は「お兄ちゃん」のことを「臭いお兄ちゃん」とずっと」言っていました。
抱き着いた時、よほど汗臭かったのでしょう。息子の言う「臭い」は決して悪い意味ではなく、憧れのようなものがあったはずです。
そう言えば、当時いちばん辛かったのは自衛官の人だったかもしれません。
私達に炊き出しはしてくれても、あの人たちはカップラーメンを食べていた。
簡易風呂も私達が」先に入った。。。涙がでます、思い出して。
その、息子もはや高校生です。
今年の春は「お兄ちゃん」の婚礼に息子が招待されました。
一人前にあつかわれた息子はうれしそうでした。
自衛官の御一人お一人に感謝の言葉をいいたいです。
本当に感謝しています。
直立不動のまま敬礼
2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。
その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。
少女「あんたら地元の人間か?」
団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」
少女「で、何しにきたんや?」
団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」
少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」
団体「・・・・?」
少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。
寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて
夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。
私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。
あんたらにわかるか?
消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。
でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」
最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。
あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。
団体は撤退。
彼女が門をくぐった時に守衛さんが彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。
上記のエピソードを読むたびに私は熱いモノがこみ上げてきます。
災害復旧支援は自衛隊の任務だから当たり前のこと、キレイ事言うな!と思う人がいるかも知れません。
実際、このような美しいエピソードばかりではないのかもしれません。
しかし、私は大多数の自衛隊員が被災者のために懸命に働いていたことは疑いようのない事実だと信じています。
1月17日を間近に控えて、震災で犠牲になられた多くの人のご冥福をお祈りするとともに、自衛隊という我々にとってかけがいのない組織のありようについてもっと考えていきたいと思います。
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